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計算尺
計算尺の歴史
計算尺の歴史
計算尺の歴史
計算尺の歴史
計算尺の歴史は大変古いもので、その基礎は15世紀の昔から始まります。当時、航海には星の位置に関する計算方法が研究されていましたが、膨大な富の計算処理が必要とされていました。この煩雑な数の処理を解決するために当時の数学者や天文学者たちが研究を続け、この悩みの中から生まれた思想がいわゆる「対数原理」でした。1614年スコットランドの貴族ジョン・ネピアが初めてこの思想をまとめて発表したといわれています。その後様々な経過をたどり計算尺は歴史を刻んで行きました。
イギリスの天文学者エドマンド・ガンターがガンターズ・ラインと呼ばれる対数尺度を発表し、この上にコンパスを当てて計算したものが「ガンター尺」といわれ、これは航海上の計算に使われた。
イギリスの数学者ウィリアム・オートレッドがガンター尺に改良を加え、コンパスを使わずに尺度2本をスライドさせる形に発展させた。
セス・パートリッジが改良型直尺計算尺を発表し、人気を博すようになる。
(パートリッジの計算尺は二つの尺度の間を第3の尺度が摺動する構造になっており、今日の両面型計算尺の原型といえる。)
コゲシャルが「二重尺度を利用する木材の計量法」をもとに計算尺を設計し、1682年に改良を加えたコゲシャル計算尺を発売した。
17世紀後半、イギリスにおいて構造の点や尺度配置、「逆尺度」や「ズラシ尺度」の思想など、まだ十分洗練されていなかったとはいえ計算尺の基本的な設計や改良が進展を遂げ、一通りの基準を築き上げたといえる。有名なニュートンもこれにより三次方程式を解いたといわれており、後世のカーソルの思想的創始者とされている。
ロンドンのジョージ・ワーナーがコゲシャル計算尺を改造し、一つの面の両側に尺度をつけ、乗除計算と平方計算を行える計算尺を発表した。これが後にイギリス尺と呼ばれる。
医学博士ピーター・エム・ロゲットが二重対数尺度を発明した後、計算尺は最も顕著な前進をする。
(イギリスから輸入された直尺型計算尺がフランスで珍重され、その研究と宣伝が本格的にフランスを風靡するに至る。)
イギリスの計算尺は19世紀の初めまで輝かしい発展をたどってきたが、1824年からの度量衡制度の急激な変革により衰微をたどる。
計算尺の歴史における中興と祖もいえるであろうアメデー・マンハイムがフランスに生誕。
マンハイムは砲兵士官としてメッツに在任中、尺度を新たな配列とした計算尺を設計発表した。これが後世いわゆる「マンハイム型」と呼ばれる計算尺となる。
内務省土木課長近藤虎五郎、工学博士広田理太郎の両氏が欧米視察の帰途、フランスで購入したドイツ製マンハイム型計算尺を持ち帰り、初めて日本に紹介した。
当時精密度器類を製作し、その技術日本随一と称せられた逸見治郎が製作研究に取り掛かる。
日本は四季ぞれぞれ気候が変化し、特に夏季の温度・湿度が高いことから計算尺の全長や分長が変化してしまい目盛りが狂ってしまう為、桜・黄楊・花梨・マホガニーなどの材質で試行錯誤を繰り返した。
試行錯誤の結果、日本固有の竹材(孟宗竹)を発見し、孟宗竹を使った合板の計算尺が完成する。
孟宗竹は九州の宮崎や鹿児島などで契約栽培された高さ15〜20メートル位、人間の目の高さの胴回り45cm、肉の厚みが1cm程度の竹。できるだけ硬い外皮の部分を使って薄い角材を取り出すが、皮が内側に反ってしまうため2枚貼り合わせて合板にした。
孟宗竹を用いてこれに特殊な加工を施することで、従来の欠点を除去した計算尺が完成し、特許を取得する。
イギリス・フランスで特許取得。
中国・アメリカ・カナダで特許取得。
第一次世界大戦により、それまで世界標準だったドイツ製計算尺の生産が途絶えると国内外を問わず計算尺の注文が激増した。そこで独自の機械切刻法を案出し大量生産方式を採用した結果、日本製バンブー計算尺として広く名声を博すにいたる。
大倉 龜は世界遊学に出かけた際に訪れたロンドン市街で、逸見の日本製計算尺が販売されているのを見て日本人として誇りに思い、将来ますます発展させたいと念願する。
逸見治郎商店の東京猿楽町にあった木造2階建て本社兼工場が火災によりダメージを受ける。
大倉 龜は火事などで苦境にあった逸見を訪ね、経営参加をしたいと申し入れる。
海外の需要を考慮した性能を持つ「大正15年型計算尺」を商標SUNの下に販売開始。
(マンハイム計算尺に第三の尺度を逆方向に目盛ったCI尺と三単位を目盛った対数のK尺を加えた計算尺で、当時はアメリカのK&E社製のものが世界的に普及しており、それを模して製作された。)
合資会社「逸見製作所」を設立。
欧米の計算尺の模倣から脱却することを目指して、日本独自の設計と工夫を盛り込んだ新しい尺度「自乗目盛りPQ」(宮崎治助の特許)を開発し、「両面型計算尺(ユニバーサル計算尺)」を商標SUNの下に販売開始する。
逸見製作所を株式会社に改組。
第二次世界大戦中は戦艦の大砲用計算尺“九八式運動盤”などが製作されたほか、戦艦大和も逸見の計算尺で設計されていた。
取締役大野辰三郎を当時の最大需要国であるアメリカ・カナダへ派遣し、同地の代理店と協力して海外販路の拡大を図る。
国内において新制中学校2年生より義務教育として採用される。
逸見治郎 急逝
日本商工会議所主催で「技能検定試験制度」設置。1級から6級までのクラスがあり、年2回全国一斉に実施された。
スピードを競う「全日本計算尺競技大会」が実施され、各地商工会議所で予選を勝ち抜いた代表が東京で技を競い、計算尺日本一が選抜された。
大倉 龜 急逝
この頃年間100万本を出荷していた。
計算尺の最高級品といえばヘンミ計算尺といわれ、給料に匹敵するくらいの高価な値段がついていたものもあった。また、輸出も貴重品扱いにされ、船ではなく飛行機で行っていた。
イギリスのサムロック・コンプトメーカー社が世界初の電卓「ANiTA」を開発する。
ソニーが電子ソロバン「MD-5」を開発する。
ヘンミ計算尺のシェアが日本で約98%、世界では約80%を占める。
「全日本中学校計算尺競技大会」や「工業高校関東地区大会」が開催される。
関数電卓が日本に普及し始める。
関数電卓の普及により一般的な計算尺は製造中止となる。
ヘンミ計算尺は約80年もの間ヒット商品となり、国内外を問わず活躍しました。
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